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3月27日、新しい

いくつかのイベントを経て、底値まで落ちていた気力と体力が、やはりいくつかのイベントを経て、V字とは言わないもののレ点くらいの回復をみせて、今日はなんとかバーンステインの「教育の社会学理論」を読むに至っている。

社会的なコミュニケーションはおしなべて出来事の連続のもとに生成し、さらに出来事を連続させるものだと捉えたルーマンの洞察はどうやら正しいようで、僕は諸々の出来事に活かされたり殺されたりするものだと実感する。

 

今月のことを振り返ると、「進化論」という公演を終えたことが一つは大きな出来事だった。やはり気力と体力が底値まで落ちており、どうやっても自分のことをマネジメントできないような状態にまで落ち込んでいた僕が、なんとか社会的な、外界とのつながりを持つことのできた場面であった。

とにかく今言いたいこと、今考えていること、あるいはこれまでもずっと言いたかったこと、ずっと考えてきたことを高密度にパッケージングできたように思う。僕の感覚的な部分に共振してくださったお客さんから、泣きましたというダイレクトメールが来たときの感覚をきっと僕はたびたび思い出すことになるだろう。

 

また大きなこととして、自分の周りの人間関係にいくつかの大きな変化があった。それらを詳らかに語ることはしないが、去っていく人、近づいてくる人、ともかくも社会の中で個々の人間が自由に動く座標であるのだから、等距離が比較的中長期において維持されることなんてありえないものだとやはり実感する。この感覚を知るために少年は点P点Qのあの問題を解かされていたのだ。

 

人間である、人間をすることを考えるうえでは、機械的なルーティンに闇雲に乗っかるのは効率的だが不健康だ。とはいえ、自分が人間をするということが、ある種の生存のために必要な機械的なルーティンを受容することと矛盾しうることの痛みも大きい。できることならば、闇雲にレールの上を歩いているように見えながらも、常にそれを俯瞰しているか、常に心が新しい状態でいるか、あるいはその両方であるかによって、できるだけあまーいあまーいおっぱーいおっぱーい、おーっぱい、おーっぱい、おーっぱぱぱぱぱっぱっぱーい、おーっぱい、おーっぱい、おっぱいおっぱいおっぱーい。おっぱーっぱっぱっぱっぱーい。おーーぱい。おっぱーい。