読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

2月7日、歯痒い

今年の京都は雪の多い冬を迎えている。東北出身の僕からしたらこの上なくノスタルジックな冬だ。こんなに雪が多い冬は、青森で暮らした5年前以来だ。もちろんその雪の降り方や積もり方は違うし、体の奥のやわらかい部分まで硬くとがらせるようなあの寒さはないのだけれど、やっぱり雪が降るというだけで、僕には歯痒さと官能を伴ったノスタルジーが沸き起こる。

 

そうだ、最近僕は何かと物事に感傷的になった気がする。雪をみたら、雪にまつわる思い出がどんどん思い出される。大したことのない出来事が、なんだか遠い昔に誰かに語り聞かされた空想のように思えてきて、それが頭の中から離れなくなる。いびつな雪だるまを作った日の雪や、側溝の雪溜めに足をすくわれて母親に泣きついた日の雪、当時付き合っていた彼女とのクリスマスデートをまるっきり忘れて家で寝ていたら命の心配をされた日の雪、色んな雪が見える気がする。

 

感傷で遊ぶのは青春の終わった大人の特権なのだとするならば、僕はもう大人なのかもしれない。

 

それこそ岩に苔がむしるようなわびさびをわきまえたスピードで大人になりたいと思ってきたけれど、精神や肉体の発達はそんな具合にはならなくて、どうやら僕は最近急に大人になったみたいだ。

 

そういえば先日大学時代の友達が、幼いころ理解できなかった父親の振る舞いを自分がコピーしていることを自覚した、というツイートをしていたけれど、僕も同じように感じることが増えてきた。

長らく、僕は父親に似ているとか母親に似ているとか言われると、なんだかいやな気がしたものだ。自分は唯一の存在であって、誰かの模倣なわけがない、と思ってきた。だけどここ最近になって、話を切り出すときのしぐさや、ちょっとした笑い方、指の位置、父親に自分が似ているということを、なんとなく理解し始めた。それは小さい頃は認めたくなかった、あるいは認められなかったことだ。

もちろん、そういうところにも感傷は転がっていて、まだ今より若かった父の声や、それに似るまいとする僕の声が、そういう細かい所作から聞こえてくるような気がする。

 

感傷で遊ぶのが楽しくて、そのことを研究テーマにしようかなとか、漫才やコントの題材にしようかなとも思うのだけど、感傷というのはどうやら一過性であるところに特徴があるようで、それを感じているときは心の中に根深く存在しているのだけど、通り過ぎてしまうと何事もなかったみたいに思われる。だからきっと、僕は来年にはこの冬のことをあんまり覚えていないんだと思う。

 

覚えていることも歯痒ければ、忘れてしまうことも歯痒い。