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4月3日、よそよそしい

たまに自分の身体がよそよそしくなることがある。例えばいつもならば何も考えずに、いわば機械的に水を飲むという動作を完遂することができる。僕は、僕の口から胃から尿道に至る機能的連続(そう考えれば尿を出すことさえ飲む行為だ!)を全面的に信頼している。

 

だけど、あるときふっとそれが機能不全に陥ったりして、あれ、水が飲めねえ、となる。ここに第一のよそよそしさがある。普段近くにあるものが急に近くあることの意味を裏切ってくるアレだ。

 

だけど人間の身体はそういうときのセーフティネットまでうまくできていて、飲めないなりにむせ返りながらでよかったらお通り下さいって感じで、意外と水が飲めちゃったりする。ここに第二のよそよそしさがある。よくわかんないうちに目的が達成されてしまって、なんだかキツネにつままれたような気持ちがするアレだ。

 

二つ揃ったくらいじゃ何も貰えないだろうけど、三つそろえば粗品くらい貰ってもいい気がする。

 

ここ何日間かの間、人とずっといるっていう、普段の僕ならほとんどありえないことをしていた。

 

少なくとも僕の場合、孤独の状態においてはゆるやかな安定がある。確かに、気付いたら取り返しがつかないくらいに活動力が落ち込んでいたりすることもあるし、逆に気付いたら車輪がぐわんぐわん回ってることもある。でもそれらの推移は基本的には穏やかで、自分なりのタイミングでスイッチが入ることになる。

 

けど他者といるとき、必ずしも問題は自分だけじゃなくなる。だから、何もかもグラグラと揺れる。車輪が回ったり止まったりして、心電図で書いたら物凄い忙しそうなグラフが生まれそうな、なんだかそんな感じになる。ましてその他者のことをきちんと人間として扱おうとしていればそれだけそうである。(基本的には僕はみんな他人は機械だと思うことにしている)

 

現実にから一定の距離を取って、クールにそしてドライに考えてます、みたいな普段の自分に慣れていると、他者にぐわんぐわんと振動させられる自分はよそよそしい。だけどそれでも何となく安定へ、複雑性の縮減へと向かっている自分は余計によそよそしく、そこだけ切り取れば僕も機械みたいなもんだなあと皮肉にも思ったりする。

 

よそよそしさが四つ揃ったのだから、本格的に粗品が欲しい。