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5月3日、涙ぐましい

涙ぐましい努力というのは、涙ぐましく見える時点で失敗が義務付けられているものだ。この義務付けられているというのは、例えば京都市における自転車運転時の灯火マナーや駐輪区域順守と同じくらい義務付けられているのである。このことは明確な真理として僕の辞書に刻まれている。

 

駐輪区域を遵守できなかった僕は、それなりに愛着のある5年間乗った自転車を京都市に回収され、ついぞそのことに気付くまでに時間がかかったために処分を食らうというミスを犯した。

 

色んな思い出がある自転車だった。大学に入学してすぐ同期と二人乗りして職務質問を受けたり、気があるわけでもない女の子を1時間運んで家まで連れて帰ったり、何日も漕いで遠方へ出かけたり、それを途中であきらめたり、二人乗り中に付き合う前の女の子の太ももを触ってどん引かれたり、割と色んなろくでもない、だけど悪くはない僕の日々に登場する自転車だった。

 

たいがい人生で起こることはそうなのだけど、自転車がなくなったこと、これについてはことさら悪いのは僕だ。

 

自転車をなくした僕は、しばらくの間はバイトの日程が立て込んでいたため、交通費支給に甘えて京都市バスへの課金厨となった。京都市内は市バスがあればどこへでも行けるし、一日乗車券が500円と格安であることもポイントが高い。もしかしたら、自動車免許のない僕にとって、京都生活の中でもっとも交通に恵まれていたのはあの頃だったのかもしれない。

 

自転車がほしいとツイートした僕のために、友人がそれこそ涙ぐましい努力をしてくれた。兵庫県西宮市から京都府京都市左京区まで、片道にして50キロほどはあるだろうか、労を惜しまず、彼自身の足で、現在僕が使用している自転車が、僕のもとへ運ばれてきたのだ。足がパンパンになりながらも、彼はラーメン屋の閉店時間に間に合い、僕のおごりでラーメンを食べる運びとなった。涙ぐましい努力も成功することがあるのだ、と思い、僕はなんだかうれしくなった。「涙ぐましい」についての辞書を更新することをも考えた。

 

そして彼は自腹を切って電車で帰った。やはり涙ぐましい。